いっしょに生きよう

 とある惑星への調査に向かったジョージとジューン夫妻とケヴィンの3名。

 先の惑星調査で、ケヴィンは不慮の事故で妻のクレアを亡くし、未だ立ち直れない状況であった。

 そんなケヴィンは、調査中に、クレアの姿を見て、我を忘れてクレアの指示する作業に取り組むうちに、誤って転落して致命傷を負ってしまうのだが、彼をテレパシーで誘導していた、この惑星の共生生物は、ケヴィンの体内に入り、傷を癒して蘇生させるのである。

 ケヴィン、ジョージ、ジューンと信頼関係を築いた共生生物は、そのパートナーにも呼び掛けて、冷凍保存されていたクレアの蘇生にも成功する。

 そして彼らは、共生生物がかつてこの惑星に不時着し、すでに故郷の星と本来の宿主のことも定かではなくなっている事実を、わずかに記憶を伝える長老から知ることとなる。

 ラストは、彼らが共に、共生生物の故郷の探査へと出かけて行くのだが、共生生物が、それが上手くいかなくても人間世界で共存するのも悪くないと思うところで終わる。


 「いっしょに生きよう」との言葉は、この惑星にとどまらざるを得ない長老が発した台詞である。

 なんでしょう、とても前向きで、温かく、ひねりが効くという風でもないお話で、切っ先鋭い作風とは、また、全然違う雰囲気です。

 晩年の作ですが、作者の衝撃的な死と重ねると、考えさせられるものがありますね。ありうべき姿を素直に示す、達観した淡白さを感じるというか。

 1997年12月号のSFマガジンはジェームズ・ティプトリー・ジュニアを特集しており、この作品の他に、作者本名でのエッセイも掲載されています。

 刹那的、利己的な地球環境破壊への怒り、女性差別への憤り、それと関連し、男性名で作品を発表していたことにまつわるこもごものことなど、驚くほど率直に思いをさらけ出しているなあという文章です。

 極めて知的だけど、不器用な人だったんだろうなあ。でも、作品を受け入れてくれた人には分かってほしいような。

 同載されているシルヴァーバーグの「いいわけ」(このような作品を書けるのは男性と断定していたこと)を読むと、余計に、そのギャップを感じてしまうのですが。

 作中、退化の兆しの見える、共生生物の群れに、彼らが呼び掛けたところ、我先に体を乗っ取ろうと、テレパシー攻撃を仕掛けるシーンが出てきます。そうではなく、知識、経験、寛容、果断さによる共生が図れるか否か。

 今、コロナにより、世界は、これまでのやり方に大きな問いを投げ掛けられています。

 医療関係者をはじめ、各界で懸命に頑張っておられる方々の努力が活かされ、終息できることを祈りつつ、これからの世の中が分断と混沌に陥らず、これからも持続可能であるよう、この知恵と経験によって、共有すべき価値観をあらためて見出す機会になればと思います。