この作品は,大変な物議をかもした,過激な問題作として有名なものですね。
同名短編集の解説で,山田和子女史が書いておられる,この作品に対して世間から巻き起こった批判に沿って見ていきますと,
①これは,どうしようもなく不道徳な物語である。
これは,まあ,当たらぬ批判であるのはわかります。
主人公タヴィのお下劣で直截的物言いと性的言動に眉をひそめる向きがあっても,基本的に彼女が実にモラルに敏感であることがわかりますからね。
②男はみんなああいうものだというふうに―残虐な暴君としてのみ女性に対しているというふうに読める。これは実にアンフェアだ。
登場する男性は,家父長的抑圧を娘にかけ続ける父親,親子関係のしがらみからあっさり解放される“子作りシステム”を選択する父親,権力をかさに性的関係を要求する校長,“女性器”の代用となる異星動物のテッセルを肌身離さず持ち歩く若者たち…。
オースン・スコット・カードに代表される男性読者に多く見られる意見ということですが,山田女史は,「こうしたことを臆面もなく言える神経が信じられない。」と書かれています。
私は,別に神経が図太くもないのでありますが,やっぱり,これだけ、嫌な男たちを並べ立てられると、正直いかがなものかという感じはします。
まあ,ウィリスさんのこと,男性をこんなふうにバイアスのかかったカテゴライズ化するなという反応を想定しながらの問題提起ということなのでしょうが,想定外の過剰な反応を巻き起こしたというところでしょう。
③性の問題と幼児虐待・動物虐待とを短絡させている。
山田女史は,「女性の抑圧,弱者への抑圧が歴史的に同一の次元で論じられることは明らか…」と主張されております。
しかしながら,この作品の一筋縄でいかないところは,必ずしもフェミニズムの立場に与しているだけのものではないところであります。
特にラスト,ジベットがテッセルを家父長的父親のもとへと送りつける行為などは,テッセルという弱者の犠牲をもってという部分に,フェミニズム論者の神経に触るところがありましょう。
つまるところ,いろんな立場の読者を居心地の悪い気分にさせる,いけずな,毒のある作品といえると思います。
好き嫌いの分かれるであろう作品ですが,SF短編を語るうえでは,欠かすことの出来ないものです。
