後南朝ゆかりの奥吉野に踏み分け入った酔狂な三人組。
彼らは,偶然にも悲劇の皇帝“自天王”の隠し砦を発見すると,500年の時空を超えて,“自天王”様と,側近の者たちが復活を遂げたのであります。
親南朝方の近郷の村々を巻き込み,騒ぎが大きくなりつつあるところ,軽薄なマスコミのインタビューが日本中を仰天させることとなります。
「五百年の歴史は問うまい。されど,本邦未だ皇位を保つならば,南朝正統にして,まことの神器を持す朕こそは,まことの帝たるは当然のこと,既往はあえてとわずとも,現帝ただちに退位して,朕をして,大日本国正統第102代天皇の御高座につかしめよ!」
博識と饒舌と関西風洒落っ気が混然としたアナザー・ワールドもので,私の大好きな作品です。
そもそも,後南朝なんて,普通その存在も知りませんよね,まず教科書で習うことはないし…。
でも,1443年に,南朝派が御所に乱入し,神剣と神璽を奪うという事件や,1457年,赤松氏の家臣たちが,潜居する皇胤を惨殺し神璽を奪取するという事件は,いかにも,ドラマチックであり,“判官びいき”の日本人の心情に訴えるものがあります。
この作品の不気味なところは,最初は,ややギャグっぽい雰囲気で始まりつつも,段々話が進むにつれ,日ごろ,表面に隠れている民衆の深層心理が,ひょんなことから呼び覚まされる様が,筆者のいうとおり,「笑おうとして笑いそこねたような,こわばったショック」を読者に与えていることであります。
それは―この索漠たる日常に対する大衆のひそかな憎しみの集積であり,さまたげられた願望の堆積であり,いいかえれば,“反”日常的な衝動であって―それが一方では,日常的現実に対する破壊衝動となり,かなえられぬ欲望を一挙に実現させる奇蹟願望となり,一切の日常性をかなえてしまう,異変の到来をねがう心となり,あるいは,エモーショナルな『正義の秩序』を,一挙に出現させる,救世主願望となる。
ここらへん鋭い指摘です。この間の郵政民営化選挙なんか典型的な現象です。
自天王が京都に入り,改めて首都を宣したときの反応も面白い。
まあ,今更,どさくさまぎれの東京遷都をあげつらうような人はあんまりいないとは思いますが,西日本,特に,関西人にとっては,東京に対する対抗意識は結構根強いものがありまして,このストーリー展開は,なんというか,心くすぐる痛快なものも感じるのですよね。
短編ではあるものの,動乱のうねりがダイナミックに凝縮されて描かれていることと,騒ぎの広がった要因が相も変らぬ普遍性を有していることを的確にとらえていること,ベースの後南朝哀史が日本人の心情にマッチすること,それに何より「笑かし」のサービス精神にあふれていること,いや実に見事な作品であります。
